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【アラベスク】  第11章 彼岸の空



第2節 夕闇の十字路 [19]




 霞流という名字は珍しい。聞けば耳に残る名だ。だがツバサは、美鶴からそれほど詳しく駅舎についてあれこれ聞いていたわけではない。そもそも美鶴は自分から話をするような人間ではないし、ツバサとしても無理に人の話を聞き出そうとするような性格ではない。シャンプーにしたって、根掘り葉掘り詮索するような事はしなかった。
「違ったらごめん」
 知っているとは答えない美鶴の態度に、ツバサは自分の勘違いだったかと思い始める。
「あ、いや」
 知ってはいる。だが、知っているとは素直に答えられない美鶴。知っていると言って、また厄介な揉め事に巻き込まれるのはゴメンだ。
 いいんだ。所詮自分はそういう冷たい人間だ。冷めた人間だ。嗤い嗤われながら生きていく人間だ。また何かに巻き込まれて苦労するのは御免だ。
「かまわない。ちょっとビックリしたけど」
 と言いながら、もう片方の手をやんわりと払う。ツバサは抵抗はしない。
 結局は知っていると答えなかった美鶴に、やっぱり勘違いだったかと思いなおし、フーッと息を吐いた。
「ホントごめん。ビックリさせた」
「いや、いいけど、何かあったのか?」
「あ、いや、何かあったと言うか」
 気まずそうに頭を掻く。
「ちょっと、人探しをしてて」
「人探し? 霞流って人を」
「ううん。探してるのは霞流って人じゃなくって」
 そこでツバサは、なぜだか少し自嘲気味に笑う。
「お兄ちゃん」
「お兄ちゃん?」
 眉を潜める美鶴に、ツバサはフフッと肩を竦めた。
「私のお兄ちゃんね、今どこに居るのかわからないの。でね、小窪智論っていう唐渓の卒業生が知ってるみたいなんだけど、その人もどこにいるのかわからなくって。霞流って人がその小窪って人と何か関係があるみたいなんだけど、ほとんど情報も無いし」
「こっ」
 小窪智論。霞流という名字に続いて、これまたとんでもない名前。それこそつい数時間前まで面と向かって話していた相手ではないか。
 一人で帰ると言い張る美鶴に、不安そうな瞳を揺らせていた女性。
 知っていると、言った方が良いのだろうか?
 揺らぐ心に、悪魔が囁く。
 言う必要などない。また変な事に巻き込まれたいのか?
 変な事。
 覚せい剤がどうだとか、住んでいるアパートが放火されたり、同級生に捕まったり、自宅謹慎を受けたり――――
 思えば、霞流さんに出会った事だって揉め事の一つだ。あんな人に出会わなければ、こんな虚しい想いをする事もなかった。
 もう、何も起こらないでほしい。
 あの時もそう思った。澤村優輝にフられ、里奈に裏切られたと思った時も、もうこんな想いは絶対に嫌だと思った。他人になど関わって、辛い思いをするのは御免だ。誰にも関わらず、誰にもどんな想いも持ちたくはない。そうすれば、辛い思いもしなくて済む。
 だから他人を拒絶し、距離を置き、楽しそうに会話する同級生を嘲笑い、彼らはバカだと軽視した。
 私は、あんな存在にはならない。
 言い聞かせて一年半を過ごし、そうして再び美鶴は、元の場所に戻ってきた。
 どうせ自分など――― そんな感情で埋め尽くされたこの場所に、再び美鶴は戻ってきた。
 自分はこれからも、この場所に戻ってくるのだろうか? この場所で、所詮自分なんて… などといった開き直りで身を支え、世間に背を向け耳を塞ぎ、そうして何度も、結局はこの場所に戻ってくるのだろうか?
 二度とこんな惨めな思いはしたくない。この場所には戻ってきたくないと思いながら、最後はまたここに戻ってくるのだろうか?
 大丈夫だよ。
 低い声が笑う。
 今度こそしっかりやるんだよ。今回は霞流なんていう誘惑に負けたのがいけないんだ。今度はもっと、しっかりと世間から遠ざかるんだ。他人なんてものには目を向けず、ただ自分の世界だけ見ていればいい。そうすればもうここに戻ってくることはない。もう辛い思いなんて、しなくて済むんだ。
 だが、そんな美鶴を何かが(さいな)む。
 そんな事が、自分にはできるのか?
 霞流を恋い慕ってしまったように、瑠駆真の誘いに心が揺れてしまったように、自分はまたどこかで、再び他人を頼ってしまうのではないか?
 だが、他人に関われば結局は自分にも火の粉がかかる。迷惑するのは自分だ。
 じゃあどうすればいい。どうすれば、自分は何も迷わず、辛い思いもせずに生きていけるんだ?
「どうしたの?」
 黙りこくり、知らないうちに俯いてしまった美鶴を怪訝に思い、ツバサが声をかける。
「ごめん、なんか湿っぽい話をしちゃったね」
 いや、違う。私は霞流という名前の人物も、小窪智論も知っている。
 目を閉じると、澄んだ瞳がまっすぐにこちらを見つめる。

「知れば、あなたはきっと、もっと苦しむ」

 もっと辛い思いをする。それは嫌だ。
 知らなければ、関わらなければ何事もなく済んでいく。知ろうとして、逆に知らなければよかったと思う事もある。
 母の横顔を脳裏に意識しながら、美鶴は思う。
 何事にも関わらなければ、傷つくこともない。悩んだり、嗤われたりするのはもう嫌だ。
 自分に向かってハッキリ答えながら、だが次の質問には答えが出せない。

「あなたはもう、慎二に未練は無いの?」

 未練があるのなら、何も知らずに霞流慎二の事は諦めろと言う。だが、未練があるのに諦めることなどできるのか?
 諦めずにさらに食い下がろうとすれば、自分が傷つく。
 諦めるか? 傷つくか?







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